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きのぴーのらららブログ

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光うるわしきもの。

11月に骨董男子と宝満山に行った時、
(漢字にしてみると凄い名前の山ですね!何の宝が隠されているのかはわかりませんが
実際、パワフルになれる山ですよ!)

登山始めの前に、竈神社に寄りまして、
骨董男子が大祓詞を述べて正式に参拝されているところに
立ち会わせていただきました。

この大祓詞じたいは、父 守男が 家の神棚に貼り付けていたので
小さなころから見ており、馴染み深い詞です。
言葉には力があると思っているし、そもそも本来の自分を見つけるには、
シンプルになる=浄化=祓い すればいいだけと思っているので、
骨董男子の参拝にさらに興味を覚えました。

ちなみに私が神社に参拝する時は、前々からこの言葉しかいいません。
(お願いごとはしません。神社は自分と向き合って決意をする場所だから。願いを叶えるのは自分だし、叶える力が備わっているからこそ、願いが生まれるから。)

「祓いたまえ、清めたまえ、神ながら 守りたまえ、幸いたまえ」
この言葉は、大祓詞の略式詞だと骨董男子から教えてもらいました。

で、親切な骨董男子が大祓詞に興味を持った私に、
大祓詞の正式な音読方法&意味を記したDVDを送ってくれました。内容はとても興味深く
日本の国の成り立ちと、日本人の精神性のルーツを少し知ることができたような気がします。

つまるところ、「光うるわしきもの」それをめざしているようです。

先ほども述べましたが、浄化=祓い をすれば、もともとの魂が輝きだすんだという
価値観を持っている私にとって産まれてこの方身につけてきた価値観、判断基準、否定感、
そんなんすべて感謝して浄化できれば、思い出せる!凄い。
目指すところが一致しているので、嬉しかったです。
元の魂に戻る行動の一環として、言葉から補助として、大祓詞を使うことができればと
思いました。

そういえば、私もブログタイトルは「Shineになる!」→
私の目指すところは「輝いて生きる」です。凛とした佇まい(自己に対する静かな自信)と
輝き、そのような姿になることが目標なんですよね。
大祓詞 様様 と、方向が同じなんてめっちゃ嬉しいきのぴーです。

が、大祓詞は昔の言葉で書かれており、大部分は理解ができない。
そこで、全訳を知りたいと、インターネットで現代語訳しているものを見つけました。
最後にコピペしています。

内容を見ていると、な、なんとManaさんの「空」理論と同じでびっくり!
言ってること同じですよ~~~!ちょっと~~~皆さん~~~!
出た「シンクロッタ」!笑。

発する言葉が自分を縛ったり、新しく創りだしたり、
言葉の持つエネルギーについて、ひしひしと感覚として感じるようになってきたので、
自分を否定する言葉は「冗談でも」使うことをやめた私ですが、
反対に な言葉、浄化の言葉、なりたい自分への言葉は積極的に発していきたいと思った次第です。

ipodに入れて、日がな聞こうと思います。そして暗譜できるようになったらいいなァ。
(ますます変人になるね笑)

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■コピペをすると読みにくくなったので、直リンク 貼ります

大祓詞(オオハライノコトバ)


大祓(おおはらい)詞(ことば)(オオハライノコトバ)

 大祓(おおはらい)(オオハライ)とは、大(だい)なる〔(1)偉大(いだい)な (2)根本(こんぽん)の (3)優(すぐ)れた (4)威力(いりょく)有(あ)る (5)すべての時間(じかん)・空間(くうかん)にあまねく及(およ)ぶ〕祓(はら)いということです。宇宙(うちゅう)全体(ぜんたい)の祓(はら)いです。

 祓(はら)いには、小(しょう)義(ぎ)・狭義(きょうぎ)の祓(はら)いと根本義(こんぽんぎ)の祓(はら)いとがあるのです。

 小(しょう)義(ぎ)・狭義(きょうぎ)の祓(はら)いとは、水(みず)・塩水(しおみず)・麻(あさ)(あさ)・形代(かたしろ)(カタシロ)等(など)を使(つか)って、罪(つみ)・穢(けが)れ・悪(あく)等(など)を除(のぞ)き、吉事(きちじ)・善(ぜん)を招(まね)こうとするものです。方便(ほうべん)的(てき)な・私的(してき)な・小(ちい)さなものです。

 根本義(こんぽんぎ)の祓(はら)いとは、宇宙(うちゅう)創造(そうぞう)神(しん)である伊(い)邪(ざ)那岐(なぎ)命(みこと)の禊祓(みそぎはらい)(ミソギハライ)です。

 伊(い)邪(ざ)那岐(なぎ)命(のみこと)は、禊(みそぎ)ぎと祓(はら)いによって、宇宙(うちゅう)の組織(そしき)構成(こうせい)を、秩序(ちつじょ)と統一(とういつ)のある、一大(いちだい)調和(ちょうわ)の完璧(かんぺき)なものにしているのです。禊(みそぎ)ぎとは、身(み)を削(そ)ぐ(彫刻(ちょうこく)のように、無用(むよう)のものを削(けず)り落(お)とす)、身(み)を濯(すす)ぐ(汚(よご)れを洗い流(あらいなが)す、大(だい)生命(せいめい)の流(なが)れに身(み)を任(まか)せる)、即(すなわ)ち絶対(ぜったい)神(しん)の御心(みこころ)に絶対(ぜったい)帰一(きいつ)・随順(ずいじゅん)・奉仕(ほうし)することです。祓(はら)いとは、自分(じぶん)の身(み)に付(つ)けている一(ひと)切(きれ)のものを投げ捨(なげす)てる、即(すなわ)ち自分(じぶん)の全(すべ)てを与(あた)え尽(つ)くす、自分(じぶん)の全(ぜん)能力(のうりょく)を発揮(はっき)することです。

 先(ま)ず幽界(ゆうかい)(闇(やみ)の世界(せかい))を整理(せいり)・統一(とういつ)して、光一(ひかりいち)元(げん)に輝(かがや)かして、次(つぎ)に顕(けんじ)界(かい)(光(ひかり)の世界(せかい))をも大(だい)整理(せいり)・大(だい)統一(とういつ)して、顕幽(けんゆう)両(りょう)界(さかい)を光一(ひかりいち)元(げん)に、一大(いちだい)統一(とういつ)しているのです。竺(つく)紫(し)(ツクシノ)日向(ひむか)之(の)(ヒムカノ)橘(たちばな)小門(おど)之(の)(タチバナノオトノ)阿波(あわ)岐(ぎ)原(はら)(アワギハラ)とは、天(てん)・火(か)・水(すい)・地(ち)の完備(かんび)している顕(けん)界(かい)の意義(いぎ)です。そこに到(いた)り、禊(みそぎ)祓(はら)うということは、絶対(ぜったい)神(かみ)の全徳(ぜんとく)の無限(むげん)の無限(むげん)の輝(かがや)きの根源(こんげん)に立(た)って、一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)新(あら)たに、一大(いちだい)調和(ちょうわ)・一大(いちだい)統一(とういつ)の全(ぜん)大宇宙(だいうちゅう)を創造(そうぞう)し続(つづ)けているということです。

 根本義(こんぽんぎ)の祓(はら)い・大(おお)祓(はら)いによって、全(ぜん)大宇宙(だいうちゅう)は既(すで)に、一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)新(あら)たに新(あら)たに、神(かみ)さまの全徳(ぜんとく)の無限(むげん)の無限(むげん)の輝(かがや)きをもって、一大(いちだい)調和(ちょうわ)・一大(いちだい)統一(とういつ)されているのです。それをそのまま謙虚(けんきょ)に・素直(すなお)に・感謝(かんしゃ)の心(こころ)で受け入(うけい)れたら、一(いっ)切(さい)の罪(つみ)・穢(けが)れは無(な)いのです。一大(いちだい)調和(ちょうわ)・一大(いちだい)統一(とういつ)の完璧(かんぺき)な全(ぜん)大宇宙(だいうちゅう)に、気付(きづ)かない状態(じょうたい)を、受け入(うけい)れない状態(じょうたい)を、罪(つみ)・穢(けが)れというのです。

 詞(ことば)(コトバ)とは、大祓(おおはらい)の真義(しんぎ)に気付(きづ)かせる為(ため)の言葉(ことば)です。言葉(ことば)によって、言葉(ことば)の力(ちから)によって、その真義(しんぎ)を理解(りかい)し・把握(はあく)し・体感(たいかん)体得(たいとく)して、一(ひと)切(きれ)の罪(つみ)・穢(けが)れの無(な)い自分(じぶん)に戻(もど)るのです。『ありがとうございます』の言霊(ことだま)が、大祓(おおはらい)の真義(しんぎ)なのです。

 すべての意識(いしき)有(あ)る者(もの)に対(たい)して、宇宙(うちゅう)絶対(ぜったい)統一(とういつ)神(しん)・天照(あまてらす)大御神(おおみかみ)は、一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)新(あら)たに、全徳(ぜんとく)の無限(むげん)の無限(むげん)の輝(かがや)きなる玉体(ぎょくたい)を、与(あた)え続(つづ)けているのです。無限(むげん)の無限(むげん)の意識(いしき)ある存在(そんざい)は、受け手(うけて)です。天照(あまてらす)大御神(おおみかみ)は、与(あた)え手(しゅ)です。受け手(うけて)はみんな平等(びょうどう)に、新(あら)たなる全徳(ぜんとく)の無限(むげん)の無限(むげん)の輝(かがや)きなる玉体(ぎょくたい)を受(う)け続(つづ)けているのです。受け手(うけて)はみんな、天照(あまてらす)大御神(おおみかみ)の御子(みこ)です。天照(あまてらす)大御神(おおみかみ)の全徳(ぜんとく)の無限(むげん)の無限(むげん)の輝(かがや)きで一杯(いっぱい)!です。神(かみ)さまの前(まえ)に立(た)つ時(とき)、みんな平等(びょうどう)なのです。神(かみ)さまに依(え)怙(こ)贔屓(びいき)は無(な)いのです。みんな平等(びょうどう)に、同(おな)じプレゼントを受(う)けているのです。みんな天照(あまてらす)大御神(おおみかみ)の真子(まこ)(マコ)・皇(すめ)御(み)孫(ま)(スメミマ)なのです。

 天照(あまてらす)大御神(おおみかみ)の玉体(ぎょくたい)とは、最高(さいこう)表現(ひょうげん)を頂点(ちょうてん)にした、無限(むげん)の無限(むげん)のチャンネルの放送(ほうそう)番組(ばんぐみ)の全体(ぜんたい)でも有(あ)るのです。一(ひと)つ一(ひと)つのチャンネル毎(ごと)に、全(ぜん)大宇宙(だいうちゅう)が有(あ)るのです。無限(むげん)の無限(むげん)のチャンネルには、無限(むげん)の無限(むげん)の全(ぜん)大宇宙(だいうちゅう)が有(あ)るのです。受け手(うけて)である皆(みな)にとって、無限(むげん)の無限(むげん)の全(ぜん)大宇宙(だいうちゅう)は、自分自身(じぶんじしん)そのものなのです。だから全体(ぜんたい)を自分(じぶん)と思(おも)うことも、部分(ぶぶん)を自分(じぶん)と思(おも)うことも、自由自在(じゆうじざい)にできるのです。

 無限(むげん)の無限(むげん)のチャンネルの番組(ばんぐみ)を楽(たの)しむ時(とき)に、全体(ぜんたい)を自分(じぶん)と見(み)て楽(たの)しむのも自由(じゆう)なら、色々(いろいろ)な部分(ぶぶん)の立場(たちば)に立(た)って、種々(しゅじゅ)様々(さまざま)な楽(たの)しみ方(かた)をするのも自由(じゆう)なのです。完全(かんぜん)な自由(じゆう)と完全(かんぜん)な平等(びょうどう)は、神(かみ)さまによって完璧(かんぺき)に保証(ほしょう)されているのです。感謝(かんしゃ)を深(ふか)めて、本当(ほんとう)に自由自在(じゆうじざい)な楽(たの)しみ方(かた)をするのも、思(おも)いを積み重(つみかさ)ねて、囚(とら)われた不自由(ふじゆう)な楽(たの)しみ方(かた)をするのも、本当(ほんとう)に自由自在(じゆうじざい)な自分(じぶん)だからこそ、できることなのです。

 大祓(おおはらい)詞(ことば)は、低(ひく)い番組(ばんぐみ)から高(たか)い番組(ばんぐみ)へと、チャンネルを切り換(きりか)える時(とき)に、大(おお)いに役(やく)に立(た)つものです。中心(ちゅうしん)を定(さだ)めることによって、調和(ちょうわ)が生(う)まれるのです。中心(ちゅうしん)が無(な)く、混沌(こんとん)としているのは、低(ひく)い番組(ばんぐみ)です。中心(ちゅうしん)が有(あ)って、調和(ちょうわ)しているのが、高(たか)い番組(ばんぐみ)です。どんな言葉(ことば)を使(つか)っても、その言葉(ことば)通(どお)りの番組(ばんぐみ)が、すべて用意(ようい)されているのです。無限(むげん)の無限(むげん)のチャンネルの番組(ばんぐみ)というのは、すべてのすべてを尽(つ)くした番組(ばんぐみ)なのです。

 一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)新(あら)たに、神(かみ)さまから受(う)け直(なお)したすべてが、自分(じぶん)のものであり、自分自身(じぶんじしん)なのです。今(いま)自分(じぶん)の眺(なが)めている番組(ばんぐみ)のすべてが、自分自身(じぶんじしん)なのです。自分(じぶん)の見(み)ている世界(せかい)のすべては、自分自身(じぶんじしん)なのです。すべての部分(ぶぶん)は、自分(じぶん)の言葉(ことば)通(どお)りに、自分(じぶん)の意(い)のままに、それぞれの役割(やくわり)を演(えん)じ切(き)っているのです。全体(ぜんたい)を自分(じぶん)と感(かん)受(うけ)すれば、全体(ぜんたい)が意(い)のままになるのです。部分(ぶぶん)を自分(じぶん)と感(かん)受(うけ)すれば、部分(ぶぶん)が意(い)のままになるのです。感謝(かんしゃ)を深(ふか)めてゆけば、全体(ぜんたい)が自分(じぶん)になって来(く)るのです。思(おも)いを積み重(つみかさ)ねて行(い)くと、小(ちい)さな部分(ぶぶん)が自分(じぶん)になって来(く)るのです。感謝(かんしゃ)に生(い)きれば、万事(ばんじ)如意(にょい)自在(じざい)なのです。思い通(おもいどお)りに生(い)きようとすれば、万事(ばんじ)不如意(ふにょい)になって来(く)るのです。
by shine-lalala | 2011-12-07 13:13
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35歳女。わたしにとってのらららん♪な極上タイムを過ごすための探究ブログです。


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